2011年12月31日土曜日

大動脈解離の著名人

大動脈解離を患った著名人は、すぐに名前が浮かぶのは、石原裕次郎、南伸介、加藤茶あたりか。
それにしても、著名人の名前を並べただけで、それは大変な病気だと思えるのが不思議。

加藤茶は見事に復帰している。ドリフターズ以来、それほど、注目していたわけではなかったが、同じ病気を患っていると妙に親近感を覚える。
加藤茶の場合は、微熱と体のだるさが1ヵ月以上続く体調不良の末に入院手術を行ったと発表されている。どうも症状が違う気がする。

石原裕次郎は、1981年に発病したらしい。当時、生還率3%といわれていた解離性大動脈瘤と診断されて、のちに右耳の難聴を患うが、結果としてはその後6年間生存している。石原裕次郎の直接の死因は、肝細胞癌なので、解離性大動脈瘤の病後としてはもっと延命したということになる。

南伸介は、この三人の著名人の中では一番顕著なこの病気の被害者でしょう。
自宅の居間で倒れているのを、外出から戻って来た家族らが発見、救急車で病院へ運ばれたが既に意識不明の状態で、解離性大動脈瘤破裂により意識が戻らないまま急逝したとある。(ウィキペディアより)

大動脈解離という病名そのものがそれほどポピュラーではないが、いずれもかなり深刻な病気であることだけは間違いなさそう。WEBで調べると、2000年には、手術をして死亡率が17%あったのが、翌年の2001年には死亡率が1割に下がっている。生還率3%という裕次郎のころから比べると隔世の感がある。手術の技術も急激に進歩している領域なんでしょうね。

2011年12月28日水曜日

ジェネリック医薬品は効きが違う?

ほぼ2週間ぶりに退院後初めての通院。
家内の運転に次女が付いてきてくれた。
たまプラーザまで行って、お昼をとんかつ。そういえば初めてのとんかつ。味噌汁は口をつけただけで具だけ食べて汁は残しておいた。久しぶりのとんかつはさすがにおいしい。

初めての通院は、検査もなく、退院後の生活を確認する程度。診察と言っても主治医の先生と話をしただけで終わった。薬は、今までどおりだが、2つの薬を一つにパッケージした新しい薬が出ているそうで、どうせ、ふたつを一緒に飲むのだからということで、合剤にしてもらったくらい。

食事の指導は塩分制限を含めていろいろと細かな注意をされた。
話のつじつまがいまいちあっていないので、適当に聞いておいた。

気のせいかもしれないが、ジェネリック品と元の医薬品とで効きが違う気がする。特に、今回処方してもらった痛み止めで効果が違う気がする。
元の薬はロキソニン。貫地谷しほりがコマーシャルしているのを何度か見たことがある。有効成分が同じかどうかはわからないが、同じ系統の薬でしょう。ロキソニンが商品名で、薬の名前としては、ロキソプロフェンというらしい。第一三共がオリジナルの製薬会社。同じ処方の薬が各社からジェネリック医薬品として発売されている。ケンタンというのもその一つ。薬局でジェネリックOKと書いて出すとこのケンタンを処方してもらった。
ところがどうも、このケンタンが、効きが違う気がする。きき方が遅い。飲んでもすぐに効かない。いつまでたっても痛みが消えない。あくまで気のせいかもしれないけど、次に行くときには、ケンタンだけはもとのロキソニンに戻してもらおうかと思う。

2011年12月24日土曜日

九死に一生

退院して改めて振り返ると、今回の大動脈解離については、幸運が重なったと思う。
大動脈解離は、3層構造を作っている大動脈の真ん中の層の膜(中膜)に、なんらかのきっかけによって血流が入り込んでしまい、層構造が別々に剥がれていく疾患。生還率3%という話もある。(ウィキペディアより)

まず、一つ目は、東京都に引っ越していたこと。神奈川に住んでいて、救急車を呼んだら別の病院に搬送されていたに違いない。榊原記念病院は、心臓外科としては日本有数の権威ある病院であるといろんな人から聞いた。結果としてこの病院で手術を受けられたことが、現在、後遺症もなく回復に向かっていることの大きな要因であったと思う。本当に場所の運がよかった。
二つ目として、発病が朝起きてすぐの時間帯で、家族がいる中で救急車を呼べたこと。違う時間帯であったり、外出先や、それこそ駅のホームなどで発作が起きていたらどうしようもなかった気がする。
三つ目は、多摩南部地区病院の先生たちの用心深さによる。最初は、ステントを挿入する手術が必要と判断して実際に手術の準備にもかかり、家内は、誓約書にサインまでしている。それでも、万が一のことを考えて、CT検査を実行してもらって初めて大動脈解離と診断された。手術の方針がまるで変わったことになる。
四つ目は、多摩南部地域病院から、榊原記念病院への連絡と榊原の受け入れの早かったこと。
五つ目は、榊原記念病院での手際のよい手術と、左手の異常に気がついたあとの再度のバイパス手術の実施。これによって、左手に後遺症が残ることから救われた。
細かな幸運は、この周りにいっぱいあると思う。
全体を通して、これしかないような細い道をつなげて、無事に生還できたのだと思う。何よりの幸運に感謝。

2011年12月13日火曜日

退院

12月13日
待ちに待った退院日。
朝の9時前には、家内と次女が来てくれた。
ナースステーションにお菓子を持っていく。予想通り、拒否されるが、無理に置いておけば、引き取ってもらえた。

帰りに早速、リンガーハットでちゃんぽんを食べて帰った。久しぶりの一般食。
思ったほどは食べられないのが癪だが、やはりおいしい。
長崎ちゃんぽんをこれほどおいしいと思って食べたのは久しぶり。
塩分制限はあるけれど、カロリー制限とタンパク質制限、糖分制限などがないのがうれしい。考えようによっては、量を少なくすれば何でも食べられるということ。
ついでに餃子も食べました。

その代りに夜は質素に済ませました。

2011年12月12日月曜日

血液検査

退院間近なので、血液検査を実施しました。
栄養状態を見ているようで、手術後は一度貧血状態だったのが、今回の血液検査では、ほぼ正常値に戻っているらしい。
食事が塩分制限でなかなか食欲を刺激しない割には、よく回復している方だと思う。

CT検査と違って血液検査は、病室のベッドで、一瞬で終わる。明日が退院だというのに、相変わらずすることがなくて退屈。とはいっても、あと一日と思うと自然と体の底から活力が出てくる感じ。
動くと痛みは相変わらずなのだけれど、病院生活というのは退屈なので、退院してからのことをあれこれと考えると自然と時間が過ぎていく。
何はさておき、何を食べようか、というのが一番かも知れない。
塩分制限があり、食事は厳しく制限されているけれど、要するに量を減らしさえすればよさそう。病院食も、味噌汁の味は変えないで、量を半分以下に抑えて出している。
それならラーメンだって食べれるはず。スープを飲まないで、麺を制限すれば塩分量はかなり制限される。一日の塩分量が6gというのはかなりきついけれど、ラーメン一杯の中でスープを飲まなければ、麺に含まれる塩分は1g以下らしい。ということはスープが少しは体内に入ってくるにしても、1食当たりで1g程度なら、残りの2食で塩分を徹底的に制限すれば、ラーメンだって食べれる計算になる。
さあ、何を食べようか?

2011年12月9日金曜日

リハビリで怒られる

このころはリハビリの毎日。
特筆すべき変化はなく、診察を受けて、あとはリハビリ。
リハビリで指導してもらった首と肩のストレッチが日課。
体の状態は、傷の痛みがひどくて、痛み止めが効かなくなると、じっとしていてもつらい状態。
痛みがひどいので、ストレッチもさぼっていると、いつまでも動かさないと余計にひどくなりますとリハビリの理学療法士の先生に叱られた。
いきなりそんなにきつく言わなくてもと思うが、確かにそのとおり。
痛みと、少しの動作でも、息が切れるのが困りもの。
もうすぐ退院だけれど、息が切れるのをなんとかしないと、職場への復帰は厳しい。

退院予定

CT検査も終わって、術後の経過も順調ということで、主治医の先生に退院予定を12月13日に設定していただいた。
月曜日にもう一度、X線と、血液検査をして、判断しましょうということになった。

すでに相当退屈していたので、退院のめどがついて日程的な目標が決まるのはありがたい。
傷の痛みは相変わらずあるが、薬で抑えてしまえば、あとはただ時間が過ぎるのを待つだけになる。
テレビもすぐに飽きてしまうし、塩分を制限されていて、たべものもおやつを自由に食べれる環境ではない。
家族の見舞いが待ち遠しい。

2011年12月8日木曜日

CT検査

転院して翌週にCT検査を実施した。
喘息の持病があるということで、(実は、喘息ではなく、ハムスターアレルギーであることは伝えたが)、榊原記念病院では、CT検査は、医師の同席が必要という判断で、西本先生に付き添って検査をおこなったが、こちらでは特に何も言われなかった。
自分で勝手に検査室に行って検査を済ませて病室に帰っただけ。
造影剤を入れてX線で撮影するが、特に気持が悪くなるということもない。造影剤を入れた直後は腕が暖かい。

CT検査の結果は順調という診断だった。
偽腔も特に悪くはなっていない状態らしい。

大動脈解離の検査には、CT検査、MRI、心エコーなどがあるらしい。このうちCT検査は、静脈内に造影剤(ヨウ素系)を注入して造影する。発症時から数えて3回目になる。福島の人よりも放射線を浴びていることになるが、こちらは検査に必要な放射線なので仕方がない。

2011年12月6日火曜日

退屈な入院生活

多摩南部地域病院に転院した翌週は本当に退屈な日々。
もちろん、首は痛いし固まっているので、ストレッチと温熱は気持ちよいがそれ以外は大してすることもない。
こちらでの主治医のS先生も、きっと退屈します、と言われていたが全くその通り。

娘たちや家内が見舞いに来るのを毎日首を長くして待っている。
DVDはすぐに観終わったし、テレビもそれほど毎日見ていても、すぐに飽きてしまう。
あたらしいDVDを調達しても、バックアップをとる方法をしらないので、増える見込みもない。

家からPCを持ってきてもらったが、病室は原則として通信禁止なので、いつも見ているわけにもいかない。通信できないPCなんてゲーム機代わりにしかならない。
家族が見舞いに来てくれるのはありがたい。長女が毎日会社帰りに寄ってくれて、家内と次女は昼前後に来てくれる。短い時間でも気晴らしになるし、少しくらい無理なことも気楽に頼める。湿布を貼ってもらうのも、看護師さんに頼むのは、わざわざナースコールをするとなると気が引ける。

2011年12月5日月曜日

病室の回転が早い

転院した日に4人部屋のうち、奥の窓側にいた2人が退院された。
せっかくなので、窓側に代わってよいかを聞いてみたらすぐに確認してくれて窓側に移動してもらった。
少しは外が見えて気晴らしになる。
窓側に洗面所があるので、少し広く感じる。
それにしても、こちらの病院(多摩南部地域病院)は、入院患者の回転が早い。
開胸手術はできないらしく、血管にステントを通すという手術が中心なので、手術後の入院はせいぜい1~2日。手術前に一日入院しても3から4日で退院される。
いわゆる低浸襲手術の代表なのかもしれない。

腹につながっていた3本の管は、ちょうど、ラパ手術の穴と同程度と思われるが、管を抜いた後はすぐに傷もふさがって痛みもそれほど長く残らない。それに比べて、胸を一直線に切り裂いて開いた方は、いつまでも痛い。表面の皮膚もピリピリするし、中の方も痛い。神経を切り開いているのだから当然かもしれない。管だけで済むのならラパ手術は相当に負担が少ない手術ということができそう。
自分の体にメスを入れられた実感からしてラパに類する傷がいかに軽微かを身をもってしることができたと思う。

リハビリ

榊原記念病院では、毎日行っていたリハビリをこちらでは特に何も言われなくなった。
それにしても肩の凝りはひどい。
自分からお願いしてリハビリを手配してもらった。

肩のストレッチを中心にやってもらう。
ストレッチは気持ちよいがその時だけですぐに効果が切れてしまう。
朝一番の時間に行って、温めるのを一緒にやってもらうことになった。
伸びを自分でやるのもなかなか億劫。
ただ動かさないと体はすぐに硬くなり痛くなる。
それにしても相変わらず少し動いただけで息が切れる。
最初のうちは、肺に水がたまっていて、呼吸が浅いせいと思っていたが、水はもうそれほどたまっていない。それよりも、心臓の脇に手をいれて、胸を開いて神経を切り裂いてといった手術そのものの影響が大きいらしい。循環器の手術というのが、からだに与える負荷が大きいということ。
この状態が普通に戻るのは、数か月から1年以上かかることもあるらしい。リハビリも時間がかかるということ。結構気が滅入る。

2011年12月3日土曜日

スポーツ観戦

12月3日
気がつくと朝の6時だった。昨夜からずっと通して眠っていた。手術後初めて。

2度目のシャワー。
今日は、バレーボールを見て夕方の時間を過ごせた。
その後で映画海猿。最近DVDで見たばかりなのに、話を筋を覚えていない。

2011年12月2日金曜日

長女は皆勤賞

12月2日
このころから既に入院生活には退屈。
夜になって長女が来てくれる。会社帰りだが、榊原記念病院よりも、家に近い分だけ、見舞いに来る時間は遅くなった。それにしても、長女は、一日も欠かさずに見舞いに来てくれている。仕事は大丈夫なのかしら。

このころは、もう退屈しているので、話しているだけで、気がまぎれる。
痛みは毎日あるので痛み止めが切れるとじっとしていてもつらいが、薬が効いている間は本当に退屈。
娘がテレビ付きのDVDプレーヤーを持ってきてくれた。しばらくこれで時間がつぶせる。
娘は9時頃までいて帰宅。

深夜に痛み止めをもらう。毎回きつい。

長女は発病直後から、WEBで状況を確認してくれていた。大動脈解離という病気そのものの理解が、家族の誰にもなかったので、いち早くそれを調べて家族に共有してくれたことになる。
今から見ても、急性解離(上行~弓部)に対する緊急手術の成績は必ずしもよくない。大動脈壁は”割れていて”菲薄化しているために縫合部の針穴からの出血すらなかなか止まらない状態、手術においては止血操作にしばしばかなりの時間を要し,手術侵襲が高くなる傾向、手術死亡率は10~20%に登る。しかし,この病態では手術をしない場合にはほぼ確実に死亡してしまう。
こんな記述を読みながら、それを理解して、不要な心配をかけまいと最低限のことだけを家族に説明してくれていたのだと思う。後から聞くと、手術の当日と翌日までは、長女は大泣きしていたらしい。パパが死んじゃう、と、本気で心配してくれていた様子。
こちらは、死ぬつもりはまだなかったけれどね。

2011年12月1日木曜日

病院食にお寿司

多摩南部地域病院での入院生活は、榊原記念病院と比べると概して退屈です。
痛みは相変わらずで、薬で抑えますが、このころには、ロキソニン内服薬の効果をお医者さんも認めてくれて、一日3回までならスムーズに渡してくれます。

初日こそ、X線や血液検査を行いましたが、2日目からは原則として血圧と脈拍、体重、体温測定のみ。それ以外はひたすら、病院内を適当に移動しながら生活してください、ということで生活を通したリハビリをしなさい、というレベルです。

ひとつ気がついたのが、食事がおいしいこと。これは助かりました。なんと2日目の夕食は、散らし寿司です。大きな海老とアナゴが乗っている。見るからにおいしそうな散らし寿司です。榊原記念病院ではちょっと考えられない食事です。
同じように、食塩量を6gに抑えても、これだけおいしい料理が作れるとは驚きです。
榊原記念病院は素晴らしい病院ですが、管理栄養士の人は猛省すべきでしょう。それに比べて、こちらの管理栄養士、のメニューは素晴らしい。
初日に言い忘れたので、2日目だけは朝食に、和食でした。明日からはパン食にしてもらうつもり。
お味噌汁をこの日だけ飲みましたが、味は一緒で、量が極端に少ない。これで塩分を調整しているようです。まずいものをたくさん食べるより、おいしいものを少量の方がうれしいに決まっています。そもそも考え方が素晴らしいですね。

シャワー室はちょっと古い

12月1日
転院2日目。今日はシャワーの予約を入れてもらう。
榊原記念病院と比べるとこちらのシャワー室は古い。おまけに足拭き場と、流し場が同じ。
トイレの床を歩いた足を、体を拭くタオルで一緒に拭いている感じ。
初日に、シャワー道具を持ってきてもらったので、家族がいない間にシャワーを済ませる。
シャワー時間は30分。
髪を洗って体を洗うだけでほとんど時間が過ぎてしまう。
シャワーは意外に体力を使う。息が切れているのが自分でもわかる。

昼過ぎに次女が来てくれる。
朝、学校に行って帰りによってくれる。
体中のこわばった筋肉を少しずつほぐしてもらった。
次女は来るたびに丁寧に体をほぐしてくれる。
普段から肩もみ、手足のマッサージをやってくれるのは決まって次女。
こういうときにも頼みやすい。

2011年11月30日水曜日

多摩南部地域病院に転院

11月30日水曜。
今日は転院予定。
朝、N先生の回診。
執刀医のF先生も顔を見せていただいた。
9時前には家内と長女が来てくれた。

看護師の人に、お礼のお菓子を渡すが、なかなか受け取ってくれない。
そうはいっても、気にしないでといって、無理に置いておけばいやともいわれなかった。

転院は救急車。
内科の先生が同乗していただいた。
ゆっくりと進むのかと思ったら、動き出すといきなりサイレン。
赤信号にも構わず侵入して救急モードで進む。
30分程度サイレンを流しっぱなし。緊急車両モードで搬送されるとは思わなかった。体中に力がはいる。これで却ってこちらの体調が悪くなるのではと思うくらい。正直、怖かった。
やっと、多摩南部地域病院に到着。
ほぼ同じ時期に本当の緊急車両で患者が運ばれてきた。
救急患者に申し訳ない印象だった。

病院についたら、また、しばらく待たされた。
救急で運ぶ意味がほとんど感じられない。
こちらの主治医のS先生が出迎えてくださった。
榊原記念病院から救急車に同乗していただいた先生とは友達の様子。同じ循環器内科の先生同士で顔見知りということかもしれない。
X線の検査を受けてこいということで、車いすで運ばれて検査を受けた。

その後、しばらく待たされてから、病室に運ばれた。こちらは4人部屋。
入口の側のベッド。ベッドのサイズはやや小さい。
その日は、それだけで、診察もなく終わった。

2011年11月29日火曜日

手術後初めてのシャワーの許可が出た

シャワー室の許可が出た。
一週間ぶり、というよりも、手術後初めてのシャワー。
シャワー室はとってもきれい。
家内に手伝ってもらって、服を脱いで、シャワー室に入る。
背中を流してもらう。
もしかすると家内に背中を流してもらうのは初めてかもしれない。とにかく記憶にはない。
石鹸を流したが、ほとんど塗りたくって流しただけの状況。

シャワー室は、脱衣場と、小さな浴槽もあるシャワー室に分かれていて、清潔だし、作業も楽。
こちらの状態は、体に管の類はもうないが、まだ傷跡はなまなましいし、自分で触るのも気が引ける。
小さな浴槽のヘリに腰を掛けて体をふいているだけで息が切れる。
「はあ、はあ」と言いながらの作業になる。

ただ、シャワーでお湯を流すだけでさっぱりした。

上司がお見舞い

11月29日火曜。
お昼ごろに、看護師さんがきて、会社の方がお見えになってますと連絡。
上司がお見舞いに来てくれた。
家内と娘に頼んで、会社の上司にだけ、何とか連絡を入れてもらっていたが、手術してからそれ以外の連絡はしてなかった。
お客様の状況も含めていろいろと手をおかけした模様。ありがたい。

当面、家族の言うことを聞いて、静養に専念するようにとの言葉をいただいた。
こちらとしては、一か月も休むつもりはなかったが、手術の状況はそれどころではなさそう。
いずれにしても、会社の状況を聞いて少し落ち着いた。

夕方またリハビリに向かう。
息が切れるのを見て、本日は、サイクリングのメニューは中止になった。
少しストレッチをして終了。
明日が、転院なので、こちらのリハビリセンターに通うのは本日が最後。
理学療法士の小澤さんは、本当に親切にいろいろと指導してくださった。感謝。

2011年11月28日月曜日

リハビリで首伸ばし

11月28日月曜。
薬で痛みを抑えている間はいいが、切れると途端に動けなくなる。
首が固まっているのが自分でもよくわかる。

昼過ぎに女性の理学療法士の方が来て肩と背中のストレッチをしてもらう。その後でいつもの小澤さんが来て少し別のストレッチを教わった。小澤さんが、せっかくだから、1階のリハビリセンターで少しリハビリしましょう、ということになり、初めて1階に向かう。

サイクリングの機械があり、10分ほど運動した。ほんの少しの運動だが、息が切れる。
サイクリングの後で念いりに肩と背中のストレッチをしてもらって、リハビリセンターを後にした。

ところがすぐには動けないくらいに疲れていた。家内が同行してくれたが、リハビリセンターの前で一休み。その後でエレベーターに乗っても、エレベーターの中のイスに座って一休み。かなりきつい。
肺の中にもう水は溜まっていないはずだが、ほんの少しで息が切れるということは、循環器の手術というのが、それだけ体に負担をかけているということらしい。早く慣れなくてはと思うがなかなか体がいうことをきかない。

2011年11月27日日曜日

首が固まって動かない

11月27日日曜。
このころには、手術後の痛みもさることながら、首から背中にかけてコリによる痛みが襲ってきていた。首から背中にかけて激痛がある。
動かすのが難しいところなのでコリによるものと思う。
リハビリを指導してくれる理学療法士の小澤先生が、金曜に肩から背中を少しのばしてくれたが、足りていない。
自分でも伸ばそうと思うが、なかなかコリがたまってくると延ばしても痛い。
日曜なので娘たちも見舞いに来てくれているが、頼んでのばしてもなかなか伸びきらない。

痛み止めとして内服薬をもらった。ロキソニン。これを飲んで、次女にしばらく背中をさすってもらっているうちに、痛みが消えていくのがわかった。
痛みが来るときには直線的にくる。痛み止めが効くときには、ジグソーパズルが埋まっていくように、あちこちの痛みが少しずつ消えていき、いつのまにか全体が気にならなくなっている。
それにしても、座薬は全く効かないし、点滴も効きはいまいちだが、ロキソニンという内服薬だけはよく効く。これがわかっただけでも価値がありそう。このあと、ロキソニンには1か月以上お世話になることになった。

2011年11月26日土曜日

腹部の管を抜いた後はホッチキス

11月25日土曜、腹部の管を抜いてもらった。「この管を抜くと楽になりますよ」と言われて期待していた。経過は順調らしい。
さあこれから抜きますという時には、知らず知らずのうちに体に力が入る。
抜くときには言いますから、体の力を抜いてていいですよ。
「一度大きく息を吸ってください。息を吐いて。もう一度息を吸って~。ハイ息を止めて。・・ハイ抜けました。」こんな感じで抜いていってくれる。ちょっと痛みはあるがそれほどの強い痛みではない。
驚いたのは、抜いた後の処置。ホッチキスで留めるだけ。ちょっと痛みますよ。といわれてパチン。はい一か所終わりました。次を抜きます。
こんな感じで3か所を抜いてもらった。なんだか、おなかの周りがすっきりしてきた。身動き取れなかった原因がなくなり、あとは、腕につないだ点滴の後だけ。

座薬が効かないということをお医者さんにも伝えておいたので、工夫してくれて、点滴の痛み止めを処方してもらった。管から直接入れる麻薬と比べると雲泥の差だけど、しばらく時間をおくとなんとか効いてくる。

妹がまた見舞いに来てくれた。話し相手がいるだけでも気晴らしになる。

2011年11月25日金曜日

座薬が効かない

このころに一番きついのは、痛み止めが利かないこと。管につながった注射器から麻薬(と思われる)痛み止めを流し込むのは一番効くが、それは、手術直後のみで、その後では補充してくれない。
次に頼りになるのは、座薬らしい。座薬にも麻薬が含まれていて、かなり強力な痛み止めと聞いた。看護師さんに痛いから何とかして、というと、この座薬を入れてくれた。
ところがこれが、相性なのかもしれないが、まったく効かない。いつまでたっても、痛みが引かない。
腹部に鈍い痛みが継続して襲ってくる。もちろん、最初の月曜の発作の時に比べると、まだ我慢できるレベル。月曜の2度目の発作は死ぬかと思ったが、それを10とすると、6か、7というレベル。それでもかなり痛い。それが座薬ではほとんど効かないということに気がつくのに丸一日かかった。
このあたりの日は、昼と言わず夜と言わず、とにかく痛みとの闘い。痛みが引いているときには、睡眠をとることもできるが、痛いときには寝ることもできず、ひたすら、ベッドの上で苦しんでいる状態。
それでも死ぬことは無いはずだが、眠れないというのはかなりの苦痛であるに違いない。

2011年11月24日木曜日

転院計画

榊原記念病院は、心臓外科中心で、しかも、救急がメインの病院らしく、急性期から亜急性期になると、できるだけ早く退院してくださいと言われそうな雰囲気がある。
主治医の西本先生から、転院の話があった。すでに多摩南部地域病院の先生とも話を進めているらしい。
多摩南部地域病院は地域の総合病院で、心臓外科手術はできないが、ステント手術は可能、総合的に、亜急性期の入院患者が過ごすにはよい病院らしい。
ということで、翌週の水曜あたりを転院日として、予定して進めましょうということになった。

リハビリは、毎日継続しているが、まだ、フロア内を一周か二周する程度。

榊原記念病院の心臓外科の体制はすごいと思います。看護師の一人一人まで、また理学療法士の先生まで、心臓外科の手術の後のケアという観点に注力されているように思う。

ひとつ欠点をあげるとすると、食事。1週間程度の間で、食事には閉口した。こんな味付けが可能なことが信じられないくらい。まずさが飛びぬけている。
減塩食であり、一日の食塩量を6g以下に抑えているらしい。それにしても、よくこれだけ不味い料理ができるものだというくらいにまずい。
カバーをあけると、においだけで、申し訳ないが吐きそうになる。

西本先生に相談して、トマトジュースと栄養ゼリーの飲食許可をもらうことができた。この二つで、なんとか栄養補給している状態だった。

2011年11月23日水曜日

リハビリ開始

11月24日木曜
リハビリに同じフロアを一周する。200mらしい。わずか200mなのに息が切れる。
肺の中に水がたまっているらしい。それで呼吸できる空気の量が減る。鼻からは酸素ボンベにつながる管を入れている。鼻が苦しいわけではないが、酸素が供給されているというだけでやはり楽になっているらしい。
パソコンを触りたくなっているが、病室では無理だし、まだ手が出せない。

2011年11月22日火曜日

麻酔が切れると痛い

一般病棟に移動してからは、ただ回復を待つのみ。その間に、リハビリのメニューがあるらしい。
榊原記念病院は、循環器外科では、国内有数の病院らしく、看護師の質も、リハビリの理学療法士の質も高そう。
勤労感謝の日、23日は、さすがに、ぼうっとして過ごしたように思う。
田舎の両親、妹夫妻が見舞いに来てくれる。もちろん、家族は、家内だけでなく娘たちも来てくれた。
麻酔が切れると痛いが、まだ、注射器型の麻酔注入器が腹部につながっている。あとから考えると、これがなくなると相当な苦しみが待っていたので、もう少し有効に使う工夫をすべきだったかも知れない。注射器型の麻酔剤は、シリンダーを押すと麻酔剤が注入される仕組み。何回か押すと、出なくなる。痛みがあるときには押してください、と言われて、何度か押してみたが、この麻酔剤は効く。ほかの痛み止めは、ほとんど効果がないものが多かっただけに、この麻酔剤の使い方を工夫してぎりぎりのタイミングを待てば、もう少し、痛みとの付き合い方が楽だったかも知れない。

執刀医の福井先生が診に来てくれた。
見るからにできそうな雰囲気を醸し出している、40代くらいの先生だった。この人が執刀してくれたのなら安心と思わせる風貌があった。

手術の痕跡を見ながら一般病室へ

11月22日火曜朝。気がついたら、一般病棟に移されていた。
家内と3人の娘たちだけでなく、田舎から両親が見舞いに来てくれていた。

とにかく、まだ生きている。手術は成功したらしい。手術ができたということが、すでにかなり大丈夫な領域である証左とも聞いた。だめなら手術そのものを断られるということ。

自分の体を見直してみて、不自由な状態に驚く。まず目につくのは、首の下から肋骨の下、みぞおちの辺りまでの一直線の傷跡。開胸手術をしましたというのが一目でわかる。傷跡の上にはテープが1cm間隔で張ってある。ほかに大きな傷跡は、左側の鎖骨のすこしひだりから胸の上、片口にかけての10cm足らずの傷跡。こちらは左手の脈がなかったので、再度、開胸を行った時の痕跡。肋骨のしたの辺りの腹からは、3本の大きな管が出ている。肺の中にたまる水を出すためらしい。腕と足の付け根からも何か出ている。息をするのにも鼻に管が通っている。点滴の管がしおらしいくらい。とにかく大手術をした後という気配は見るだけで十分にわかる。
両手がグローブのように腫れている。これも手術の影響らしい。

病室で、かわるがわる覗き込む顔にこたえていても、頭はぼうっとしている。長女はこの日まで、ずうっと泣き通しだった様子。私が、死ぬかもと思っていたらしい。ネットで調べるのはお手のものなので、何か一つ情報があると、すぐにその関連の情報を調べて、どうなるのかと思案を巡らす、その繰り返しで疲れていたのもあると思う。

主治医が軽く手術の説明をしてくれる。
左手の再手術についても説明を受ける。左手を見ていると自分の意思とは関係なくぴくぴくとひきつっている。脈が一度無くなって血が通わなくなった痕跡らしい。ただ、その後すぐに気がついて、手術室にいる間に再度開胸を行い、バイパスして血流の回復を確認してくれたので、このあと後遺症もなく回復できた。執刀医の先生の技術力の賜物を思う。感謝。
ちなみに昨日の朝、つまり発作の起こった朝には煙草を吸う前に痛みが来て、そのまま救急車、手術と進行したので、朝は、すでに煙草を吸っていない。その前日の夜に吸って以来ということになる。さすがに今回ばかりは辞めざるを得ない。

2011年11月21日月曜日

開胸手術と左手の脈が無い

手術は全身麻酔なので、手術室に入った後のことはわからない。
家族は外で待っていてくれた様子。
大動脈解離については、スタンフォードA型とスタンフォードB型の両方が発症しており、手術の対象となったのは、定石どおりA型の部分。B型は温存しておく療法らしい。
普通の病院で行えば、この手術だけで、朝から初めて、夕方までかかる大手術らしい。胸を開いて、心臓から出ている大動脈の一部を人工のものに置き換えるという大変な手術。のちにもらったパンフレットからテルモ製の人工動脈と推測している。
榊原記念病院は、心臓外科の分野では、日本で三本指に入るところらしい。この大手術を、3時間でやったと聞いている。
ただし、一度胸をふさいでみたところ、左手の脈が無い。そこで再度開胸して、左手の血流のバイパス手術を実施したらしい。それにさらに1時間か2時間程度。
あとからみて、最初の開胸手術のあとは、喉もとから肋骨の下まで伸びている一直線の傷跡でわかる。二度目の開胸の痕は、左の鎖骨から胸の上に伸びている10cm足らずの傷跡としてのこっている。このあと、両方の傷跡とも、痛みは長い間続くことになる。

手術室に入る前には、手術中に何かあったら、お知らせします、と言われていたが、左手の脈がなく、再度の開胸とバイパス手術に関しては、実施前には、特に何も話はなかったらしい。結果としては、後々まで後遺症もなく素晴らしい手術をしていただいたのは幸運だったと思う。

手術が終わった後も集中治療室に入れられて当日は何の記憶もない。

大動脈解離で榊原記念病院へ搬送

CT検査の結果は、意外な病名だった。

「大動脈解離」

そんな名前を素人に言われても困る。
何だかわからないが、多摩南部地域病院では手術もできないらしい。そこから、診てくれた先生も救急車に同乗して、別の病院に移送することが決まったらしい。もう、午前10時ごろになっている。痛みは全く良くならない。こちらで何もできないので、任せるしかないがそれにしても早くなんとかしてほしいという思いでいっぱいだった。

また、救急車に乗り込んで、移送が始まる。最初に乗ったとき以上に記憶があいまいになっている。痛み止めくらいの処置はあったのかも知れない。
榊原記念病院に運ばれたあたりは記憶があいまいになっている。救急車だと30分程度の距離だが、乗ったところも降りたところもはっきりとした記憶がない。
次に覚えているのは、「大きな手術になります」、という言葉。開腹手術ですか?と聞くと、「開胸手術です」という答えが返ってきたことくらい。あとはどんな手術をするのかもわからなかったが、こちらに選択肢はない。
手術の前に、娘たちが間に合って、面会してくれた。長女はしっかりと支持してくれたようだが、ずっと泣いていたらしい。末の娘も、一度学校に行った後で病院に駆けつけてくれた様子。とにかく3人の娘たちの顔は見ることができて、そのまま、手術室に運ばれた。

のちに説明を受けたところでは、Stanford A型の大動脈解離ということだった。上行大動脈に解離が及んでいる状態で、下行大動脈にもあるが、そこは今回の手術ではそのまま放置されたらしい。

多摩南部地域病院へ

弟のことが少し頭をよぎっていた。
入院したときには知らなかったが、あとから母親に聞くと、一度心臓発作で救急車で運ばれたらしい。心筋梗塞だったように思うが、ニトロの舌下錠の世話になっているらしい。兄弟だからきっと同じ系統の病気に違いない、そんな先入観もあったと思う。
救急隊員の人に、弟と、それから父親の話もした記憶がある。
それらの情報を頼りに、救急隊員は、無線で連絡を取りながら、心臓関係の救急医を探してくれたのだと思う。しばらく本部と話をしていて、多摩南部地域病院に搬送が決まった。そんな名前を家内に話していたらしいが、私は痛みに悶えていたので記憶が定かではない。
それでも救急車が動き出した時にはわかった。

どういう道順を通ったのかさっぱり記憶にない。救急車の中でももだえ苦しんでいたと思う。
とにかく、小一時間ほどで、多摩南部地域病院の救急外来に到着した。そこから、しばらくの間、いろいろ問診と検査をやったのだと思う。問診は、「痛い」という以外には有効な情報はなかったかも知れない。
家内の話だと、ここで、心筋梗塞を疑って一度、動脈中にステントを通す手術を行うという結論が出ていたらしい。家内は、言われるままに書類にサインをして、あとは手術を待つという時に、別のお医者さんが、やはり気になるから、念のため、CTを取ろう、ということになり、それからさらにCT検査をすることになった。このあたりは、当人は、半分意識も朦朧としていて、何が起こっているのかよく理解できていなかった。

とにかく、CT検査を行ったらしい。CTの間もこちらは当然痛いので、動き回る。「動かないで」と何度も言われて、必死で、周りにあった棒をつかんでいた記憶がある。ちゃんと止まっていられたかどうかはなはだ疑問だが、最低限の検査と診察に耐える画像は取れたのだと思う。
それでも、このCT検査は重要だった。どの先生かもわからないが、CT検査をやろうと言ってくださった先生のおかげで、今、このブログを書くことができている。この時に当初の計画どおり、ステントを通す手術を行っていたら、私の大動脈は見事に粉砕されていたに違いない。わかりやすく言うと、その日のうちに、それも数時間のうちに、あの世に行っているということを意味している。
ただ、不思議に死ぬという予感はなかったように思う。もっとも死んだことはないので、本当に死んでしまう時にどんな感触なのか知りようもないが。賽の河原を通って、三途の川を渡ろうとした記憶もないし、閻魔大王さまの顔も見なかった。

いつもの朝食時に突然の胸の痛み

11月21日朝、6時すぎたころ。いつもどおり、ダイニングのイスに座って、バナナを食べていたら突然の胸に痛みが来た。一瞬、バナナが詰まったのかと思った。ちょうど、バナナが食道を通ったあたりの背中に鈍い痛み。バナナの飲み込み方が悪くて、食道の筋肉が痙攣したのかと思った。
胸を叩いてみても良くならない。そのうちに、すでに起きていた長女が心配そうにのぞきこんで、救急車を呼ぼうか、と言ってくれている。「会社にいけるかな」そんなことを考えながら、まだ、救急車は不要だろうと考えていた。
5分ほど、体をかがめて発作が通り過ぎるのを待っていたように思う。
そのあとで、突然来た。今度は、もだえるような痛み。会社に行けるどころではない。「救急車、呼んで」やっとそれだけ言って、痛みに悶えていた。

救急車が来るまでの20分程度の間にも、もだえ苦しんでいたと思う。そのうちに救急車が家の前に来て、救急士が2名、迎えに家の中に入ってきてくれた。
リビングで悶えていたように思う。リビングから、ダイニングのイスに座らされて、そこから二人係で運び出してもらった。意識はあるのだが、体の自由が利かない。
救急車には、妻が同乗してくれた。救急車は初めて乗るなぁ、そんなことが頭をよぎったが、それ以上に、痛みは全くなくならないので、ずっと悶えていたように思う。