2011年12月31日土曜日

大動脈解離の著名人

大動脈解離を患った著名人は、すぐに名前が浮かぶのは、石原裕次郎、南伸介、加藤茶あたりか。
それにしても、著名人の名前を並べただけで、それは大変な病気だと思えるのが不思議。

加藤茶は見事に復帰している。ドリフターズ以来、それほど、注目していたわけではなかったが、同じ病気を患っていると妙に親近感を覚える。
加藤茶の場合は、微熱と体のだるさが1ヵ月以上続く体調不良の末に入院手術を行ったと発表されている。どうも症状が違う気がする。

石原裕次郎は、1981年に発病したらしい。当時、生還率3%といわれていた解離性大動脈瘤と診断されて、のちに右耳の難聴を患うが、結果としてはその後6年間生存している。石原裕次郎の直接の死因は、肝細胞癌なので、解離性大動脈瘤の病後としてはもっと延命したということになる。

南伸介は、この三人の著名人の中では一番顕著なこの病気の被害者でしょう。
自宅の居間で倒れているのを、外出から戻って来た家族らが発見、救急車で病院へ運ばれたが既に意識不明の状態で、解離性大動脈瘤破裂により意識が戻らないまま急逝したとある。(ウィキペディアより)

大動脈解離という病名そのものがそれほどポピュラーではないが、いずれもかなり深刻な病気であることだけは間違いなさそう。WEBで調べると、2000年には、手術をして死亡率が17%あったのが、翌年の2001年には死亡率が1割に下がっている。生還率3%という裕次郎のころから比べると隔世の感がある。手術の技術も急激に進歩している領域なんでしょうね。

2011年12月28日水曜日

ジェネリック医薬品は効きが違う?

ほぼ2週間ぶりに退院後初めての通院。
家内の運転に次女が付いてきてくれた。
たまプラーザまで行って、お昼をとんかつ。そういえば初めてのとんかつ。味噌汁は口をつけただけで具だけ食べて汁は残しておいた。久しぶりのとんかつはさすがにおいしい。

初めての通院は、検査もなく、退院後の生活を確認する程度。診察と言っても主治医の先生と話をしただけで終わった。薬は、今までどおりだが、2つの薬を一つにパッケージした新しい薬が出ているそうで、どうせ、ふたつを一緒に飲むのだからということで、合剤にしてもらったくらい。

食事の指導は塩分制限を含めていろいろと細かな注意をされた。
話のつじつまがいまいちあっていないので、適当に聞いておいた。

気のせいかもしれないが、ジェネリック品と元の医薬品とで効きが違う気がする。特に、今回処方してもらった痛み止めで効果が違う気がする。
元の薬はロキソニン。貫地谷しほりがコマーシャルしているのを何度か見たことがある。有効成分が同じかどうかはわからないが、同じ系統の薬でしょう。ロキソニンが商品名で、薬の名前としては、ロキソプロフェンというらしい。第一三共がオリジナルの製薬会社。同じ処方の薬が各社からジェネリック医薬品として発売されている。ケンタンというのもその一つ。薬局でジェネリックOKと書いて出すとこのケンタンを処方してもらった。
ところがどうも、このケンタンが、効きが違う気がする。きき方が遅い。飲んでもすぐに効かない。いつまでたっても痛みが消えない。あくまで気のせいかもしれないけど、次に行くときには、ケンタンだけはもとのロキソニンに戻してもらおうかと思う。

2011年12月24日土曜日

九死に一生

退院して改めて振り返ると、今回の大動脈解離については、幸運が重なったと思う。
大動脈解離は、3層構造を作っている大動脈の真ん中の層の膜(中膜)に、なんらかのきっかけによって血流が入り込んでしまい、層構造が別々に剥がれていく疾患。生還率3%という話もある。(ウィキペディアより)

まず、一つ目は、東京都に引っ越していたこと。神奈川に住んでいて、救急車を呼んだら別の病院に搬送されていたに違いない。榊原記念病院は、心臓外科としては日本有数の権威ある病院であるといろんな人から聞いた。結果としてこの病院で手術を受けられたことが、現在、後遺症もなく回復に向かっていることの大きな要因であったと思う。本当に場所の運がよかった。
二つ目として、発病が朝起きてすぐの時間帯で、家族がいる中で救急車を呼べたこと。違う時間帯であったり、外出先や、それこそ駅のホームなどで発作が起きていたらどうしようもなかった気がする。
三つ目は、多摩南部地区病院の先生たちの用心深さによる。最初は、ステントを挿入する手術が必要と判断して実際に手術の準備にもかかり、家内は、誓約書にサインまでしている。それでも、万が一のことを考えて、CT検査を実行してもらって初めて大動脈解離と診断された。手術の方針がまるで変わったことになる。
四つ目は、多摩南部地域病院から、榊原記念病院への連絡と榊原の受け入れの早かったこと。
五つ目は、榊原記念病院での手際のよい手術と、左手の異常に気がついたあとの再度のバイパス手術の実施。これによって、左手に後遺症が残ることから救われた。
細かな幸運は、この周りにいっぱいあると思う。
全体を通して、これしかないような細い道をつなげて、無事に生還できたのだと思う。何よりの幸運に感謝。

2011年12月13日火曜日

退院

12月13日
待ちに待った退院日。
朝の9時前には、家内と次女が来てくれた。
ナースステーションにお菓子を持っていく。予想通り、拒否されるが、無理に置いておけば、引き取ってもらえた。

帰りに早速、リンガーハットでちゃんぽんを食べて帰った。久しぶりの一般食。
思ったほどは食べられないのが癪だが、やはりおいしい。
長崎ちゃんぽんをこれほどおいしいと思って食べたのは久しぶり。
塩分制限はあるけれど、カロリー制限とタンパク質制限、糖分制限などがないのがうれしい。考えようによっては、量を少なくすれば何でも食べられるということ。
ついでに餃子も食べました。

その代りに夜は質素に済ませました。

2011年12月12日月曜日

血液検査

退院間近なので、血液検査を実施しました。
栄養状態を見ているようで、手術後は一度貧血状態だったのが、今回の血液検査では、ほぼ正常値に戻っているらしい。
食事が塩分制限でなかなか食欲を刺激しない割には、よく回復している方だと思う。

CT検査と違って血液検査は、病室のベッドで、一瞬で終わる。明日が退院だというのに、相変わらずすることがなくて退屈。とはいっても、あと一日と思うと自然と体の底から活力が出てくる感じ。
動くと痛みは相変わらずなのだけれど、病院生活というのは退屈なので、退院してからのことをあれこれと考えると自然と時間が過ぎていく。
何はさておき、何を食べようか、というのが一番かも知れない。
塩分制限があり、食事は厳しく制限されているけれど、要するに量を減らしさえすればよさそう。病院食も、味噌汁の味は変えないで、量を半分以下に抑えて出している。
それならラーメンだって食べれるはず。スープを飲まないで、麺を制限すれば塩分量はかなり制限される。一日の塩分量が6gというのはかなりきついけれど、ラーメン一杯の中でスープを飲まなければ、麺に含まれる塩分は1g以下らしい。ということはスープが少しは体内に入ってくるにしても、1食当たりで1g程度なら、残りの2食で塩分を徹底的に制限すれば、ラーメンだって食べれる計算になる。
さあ、何を食べようか?

2011年12月9日金曜日

リハビリで怒られる

このころはリハビリの毎日。
特筆すべき変化はなく、診察を受けて、あとはリハビリ。
リハビリで指導してもらった首と肩のストレッチが日課。
体の状態は、傷の痛みがひどくて、痛み止めが効かなくなると、じっとしていてもつらい状態。
痛みがひどいので、ストレッチもさぼっていると、いつまでも動かさないと余計にひどくなりますとリハビリの理学療法士の先生に叱られた。
いきなりそんなにきつく言わなくてもと思うが、確かにそのとおり。
痛みと、少しの動作でも、息が切れるのが困りもの。
もうすぐ退院だけれど、息が切れるのをなんとかしないと、職場への復帰は厳しい。

退院予定

CT検査も終わって、術後の経過も順調ということで、主治医の先生に退院予定を12月13日に設定していただいた。
月曜日にもう一度、X線と、血液検査をして、判断しましょうということになった。

すでに相当退屈していたので、退院のめどがついて日程的な目標が決まるのはありがたい。
傷の痛みは相変わらずあるが、薬で抑えてしまえば、あとはただ時間が過ぎるのを待つだけになる。
テレビもすぐに飽きてしまうし、塩分を制限されていて、たべものもおやつを自由に食べれる環境ではない。
家族の見舞いが待ち遠しい。

2011年12月8日木曜日

CT検査

転院して翌週にCT検査を実施した。
喘息の持病があるということで、(実は、喘息ではなく、ハムスターアレルギーであることは伝えたが)、榊原記念病院では、CT検査は、医師の同席が必要という判断で、西本先生に付き添って検査をおこなったが、こちらでは特に何も言われなかった。
自分で勝手に検査室に行って検査を済ませて病室に帰っただけ。
造影剤を入れてX線で撮影するが、特に気持が悪くなるということもない。造影剤を入れた直後は腕が暖かい。

CT検査の結果は順調という診断だった。
偽腔も特に悪くはなっていない状態らしい。

大動脈解離の検査には、CT検査、MRI、心エコーなどがあるらしい。このうちCT検査は、静脈内に造影剤(ヨウ素系)を注入して造影する。発症時から数えて3回目になる。福島の人よりも放射線を浴びていることになるが、こちらは検査に必要な放射線なので仕方がない。

2011年12月6日火曜日

退屈な入院生活

多摩南部地域病院に転院した翌週は本当に退屈な日々。
もちろん、首は痛いし固まっているので、ストレッチと温熱は気持ちよいがそれ以外は大してすることもない。
こちらでの主治医のS先生も、きっと退屈します、と言われていたが全くその通り。

娘たちや家内が見舞いに来るのを毎日首を長くして待っている。
DVDはすぐに観終わったし、テレビもそれほど毎日見ていても、すぐに飽きてしまう。
あたらしいDVDを調達しても、バックアップをとる方法をしらないので、増える見込みもない。

家からPCを持ってきてもらったが、病室は原則として通信禁止なので、いつも見ているわけにもいかない。通信できないPCなんてゲーム機代わりにしかならない。
家族が見舞いに来てくれるのはありがたい。長女が毎日会社帰りに寄ってくれて、家内と次女は昼前後に来てくれる。短い時間でも気晴らしになるし、少しくらい無理なことも気楽に頼める。湿布を貼ってもらうのも、看護師さんに頼むのは、わざわざナースコールをするとなると気が引ける。

2011年12月5日月曜日

病室の回転が早い

転院した日に4人部屋のうち、奥の窓側にいた2人が退院された。
せっかくなので、窓側に代わってよいかを聞いてみたらすぐに確認してくれて窓側に移動してもらった。
少しは外が見えて気晴らしになる。
窓側に洗面所があるので、少し広く感じる。
それにしても、こちらの病院(多摩南部地域病院)は、入院患者の回転が早い。
開胸手術はできないらしく、血管にステントを通すという手術が中心なので、手術後の入院はせいぜい1~2日。手術前に一日入院しても3から4日で退院される。
いわゆる低浸襲手術の代表なのかもしれない。

腹につながっていた3本の管は、ちょうど、ラパ手術の穴と同程度と思われるが、管を抜いた後はすぐに傷もふさがって痛みもそれほど長く残らない。それに比べて、胸を一直線に切り裂いて開いた方は、いつまでも痛い。表面の皮膚もピリピリするし、中の方も痛い。神経を切り開いているのだから当然かもしれない。管だけで済むのならラパ手術は相当に負担が少ない手術ということができそう。
自分の体にメスを入れられた実感からしてラパに類する傷がいかに軽微かを身をもってしることができたと思う。

リハビリ

榊原記念病院では、毎日行っていたリハビリをこちらでは特に何も言われなくなった。
それにしても肩の凝りはひどい。
自分からお願いしてリハビリを手配してもらった。

肩のストレッチを中心にやってもらう。
ストレッチは気持ちよいがその時だけですぐに効果が切れてしまう。
朝一番の時間に行って、温めるのを一緒にやってもらうことになった。
伸びを自分でやるのもなかなか億劫。
ただ動かさないと体はすぐに硬くなり痛くなる。
それにしても相変わらず少し動いただけで息が切れる。
最初のうちは、肺に水がたまっていて、呼吸が浅いせいと思っていたが、水はもうそれほどたまっていない。それよりも、心臓の脇に手をいれて、胸を開いて神経を切り裂いてといった手術そのものの影響が大きいらしい。循環器の手術というのが、からだに与える負荷が大きいということ。
この状態が普通に戻るのは、数か月から1年以上かかることもあるらしい。リハビリも時間がかかるということ。結構気が滅入る。

2011年12月3日土曜日

スポーツ観戦

12月3日
気がつくと朝の6時だった。昨夜からずっと通して眠っていた。手術後初めて。

2度目のシャワー。
今日は、バレーボールを見て夕方の時間を過ごせた。
その後で映画海猿。最近DVDで見たばかりなのに、話を筋を覚えていない。

2011年12月2日金曜日

長女は皆勤賞

12月2日
このころから既に入院生活には退屈。
夜になって長女が来てくれる。会社帰りだが、榊原記念病院よりも、家に近い分だけ、見舞いに来る時間は遅くなった。それにしても、長女は、一日も欠かさずに見舞いに来てくれている。仕事は大丈夫なのかしら。

このころは、もう退屈しているので、話しているだけで、気がまぎれる。
痛みは毎日あるので痛み止めが切れるとじっとしていてもつらいが、薬が効いている間は本当に退屈。
娘がテレビ付きのDVDプレーヤーを持ってきてくれた。しばらくこれで時間がつぶせる。
娘は9時頃までいて帰宅。

深夜に痛み止めをもらう。毎回きつい。

長女は発病直後から、WEBで状況を確認してくれていた。大動脈解離という病気そのものの理解が、家族の誰にもなかったので、いち早くそれを調べて家族に共有してくれたことになる。
今から見ても、急性解離(上行~弓部)に対する緊急手術の成績は必ずしもよくない。大動脈壁は”割れていて”菲薄化しているために縫合部の針穴からの出血すらなかなか止まらない状態、手術においては止血操作にしばしばかなりの時間を要し,手術侵襲が高くなる傾向、手術死亡率は10~20%に登る。しかし,この病態では手術をしない場合にはほぼ確実に死亡してしまう。
こんな記述を読みながら、それを理解して、不要な心配をかけまいと最低限のことだけを家族に説明してくれていたのだと思う。後から聞くと、手術の当日と翌日までは、長女は大泣きしていたらしい。パパが死んじゃう、と、本気で心配してくれていた様子。
こちらは、死ぬつもりはまだなかったけれどね。

2011年12月1日木曜日

病院食にお寿司

多摩南部地域病院での入院生活は、榊原記念病院と比べると概して退屈です。
痛みは相変わらずで、薬で抑えますが、このころには、ロキソニン内服薬の効果をお医者さんも認めてくれて、一日3回までならスムーズに渡してくれます。

初日こそ、X線や血液検査を行いましたが、2日目からは原則として血圧と脈拍、体重、体温測定のみ。それ以外はひたすら、病院内を適当に移動しながら生活してください、ということで生活を通したリハビリをしなさい、というレベルです。

ひとつ気がついたのが、食事がおいしいこと。これは助かりました。なんと2日目の夕食は、散らし寿司です。大きな海老とアナゴが乗っている。見るからにおいしそうな散らし寿司です。榊原記念病院ではちょっと考えられない食事です。
同じように、食塩量を6gに抑えても、これだけおいしい料理が作れるとは驚きです。
榊原記念病院は素晴らしい病院ですが、管理栄養士の人は猛省すべきでしょう。それに比べて、こちらの管理栄養士、のメニューは素晴らしい。
初日に言い忘れたので、2日目だけは朝食に、和食でした。明日からはパン食にしてもらうつもり。
お味噌汁をこの日だけ飲みましたが、味は一緒で、量が極端に少ない。これで塩分を調整しているようです。まずいものをたくさん食べるより、おいしいものを少量の方がうれしいに決まっています。そもそも考え方が素晴らしいですね。

シャワー室はちょっと古い

12月1日
転院2日目。今日はシャワーの予約を入れてもらう。
榊原記念病院と比べるとこちらのシャワー室は古い。おまけに足拭き場と、流し場が同じ。
トイレの床を歩いた足を、体を拭くタオルで一緒に拭いている感じ。
初日に、シャワー道具を持ってきてもらったので、家族がいない間にシャワーを済ませる。
シャワー時間は30分。
髪を洗って体を洗うだけでほとんど時間が過ぎてしまう。
シャワーは意外に体力を使う。息が切れているのが自分でもわかる。

昼過ぎに次女が来てくれる。
朝、学校に行って帰りによってくれる。
体中のこわばった筋肉を少しずつほぐしてもらった。
次女は来るたびに丁寧に体をほぐしてくれる。
普段から肩もみ、手足のマッサージをやってくれるのは決まって次女。
こういうときにも頼みやすい。