2011年11月30日水曜日

多摩南部地域病院に転院

11月30日水曜。
今日は転院予定。
朝、N先生の回診。
執刀医のF先生も顔を見せていただいた。
9時前には家内と長女が来てくれた。

看護師の人に、お礼のお菓子を渡すが、なかなか受け取ってくれない。
そうはいっても、気にしないでといって、無理に置いておけばいやともいわれなかった。

転院は救急車。
内科の先生が同乗していただいた。
ゆっくりと進むのかと思ったら、動き出すといきなりサイレン。
赤信号にも構わず侵入して救急モードで進む。
30分程度サイレンを流しっぱなし。緊急車両モードで搬送されるとは思わなかった。体中に力がはいる。これで却ってこちらの体調が悪くなるのではと思うくらい。正直、怖かった。
やっと、多摩南部地域病院に到着。
ほぼ同じ時期に本当の緊急車両で患者が運ばれてきた。
救急患者に申し訳ない印象だった。

病院についたら、また、しばらく待たされた。
救急で運ぶ意味がほとんど感じられない。
こちらの主治医のS先生が出迎えてくださった。
榊原記念病院から救急車に同乗していただいた先生とは友達の様子。同じ循環器内科の先生同士で顔見知りということかもしれない。
X線の検査を受けてこいということで、車いすで運ばれて検査を受けた。

その後、しばらく待たされてから、病室に運ばれた。こちらは4人部屋。
入口の側のベッド。ベッドのサイズはやや小さい。
その日は、それだけで、診察もなく終わった。

2011年11月29日火曜日

手術後初めてのシャワーの許可が出た

シャワー室の許可が出た。
一週間ぶり、というよりも、手術後初めてのシャワー。
シャワー室はとってもきれい。
家内に手伝ってもらって、服を脱いで、シャワー室に入る。
背中を流してもらう。
もしかすると家内に背中を流してもらうのは初めてかもしれない。とにかく記憶にはない。
石鹸を流したが、ほとんど塗りたくって流しただけの状況。

シャワー室は、脱衣場と、小さな浴槽もあるシャワー室に分かれていて、清潔だし、作業も楽。
こちらの状態は、体に管の類はもうないが、まだ傷跡はなまなましいし、自分で触るのも気が引ける。
小さな浴槽のヘリに腰を掛けて体をふいているだけで息が切れる。
「はあ、はあ」と言いながらの作業になる。

ただ、シャワーでお湯を流すだけでさっぱりした。

上司がお見舞い

11月29日火曜。
お昼ごろに、看護師さんがきて、会社の方がお見えになってますと連絡。
上司がお見舞いに来てくれた。
家内と娘に頼んで、会社の上司にだけ、何とか連絡を入れてもらっていたが、手術してからそれ以外の連絡はしてなかった。
お客様の状況も含めていろいろと手をおかけした模様。ありがたい。

当面、家族の言うことを聞いて、静養に専念するようにとの言葉をいただいた。
こちらとしては、一か月も休むつもりはなかったが、手術の状況はそれどころではなさそう。
いずれにしても、会社の状況を聞いて少し落ち着いた。

夕方またリハビリに向かう。
息が切れるのを見て、本日は、サイクリングのメニューは中止になった。
少しストレッチをして終了。
明日が、転院なので、こちらのリハビリセンターに通うのは本日が最後。
理学療法士の小澤さんは、本当に親切にいろいろと指導してくださった。感謝。

2011年11月28日月曜日

リハビリで首伸ばし

11月28日月曜。
薬で痛みを抑えている間はいいが、切れると途端に動けなくなる。
首が固まっているのが自分でもよくわかる。

昼過ぎに女性の理学療法士の方が来て肩と背中のストレッチをしてもらう。その後でいつもの小澤さんが来て少し別のストレッチを教わった。小澤さんが、せっかくだから、1階のリハビリセンターで少しリハビリしましょう、ということになり、初めて1階に向かう。

サイクリングの機械があり、10分ほど運動した。ほんの少しの運動だが、息が切れる。
サイクリングの後で念いりに肩と背中のストレッチをしてもらって、リハビリセンターを後にした。

ところがすぐには動けないくらいに疲れていた。家内が同行してくれたが、リハビリセンターの前で一休み。その後でエレベーターに乗っても、エレベーターの中のイスに座って一休み。かなりきつい。
肺の中にもう水は溜まっていないはずだが、ほんの少しで息が切れるということは、循環器の手術というのが、それだけ体に負担をかけているということらしい。早く慣れなくてはと思うがなかなか体がいうことをきかない。

2011年11月27日日曜日

首が固まって動かない

11月27日日曜。
このころには、手術後の痛みもさることながら、首から背中にかけてコリによる痛みが襲ってきていた。首から背中にかけて激痛がある。
動かすのが難しいところなのでコリによるものと思う。
リハビリを指導してくれる理学療法士の小澤先生が、金曜に肩から背中を少しのばしてくれたが、足りていない。
自分でも伸ばそうと思うが、なかなかコリがたまってくると延ばしても痛い。
日曜なので娘たちも見舞いに来てくれているが、頼んでのばしてもなかなか伸びきらない。

痛み止めとして内服薬をもらった。ロキソニン。これを飲んで、次女にしばらく背中をさすってもらっているうちに、痛みが消えていくのがわかった。
痛みが来るときには直線的にくる。痛み止めが効くときには、ジグソーパズルが埋まっていくように、あちこちの痛みが少しずつ消えていき、いつのまにか全体が気にならなくなっている。
それにしても、座薬は全く効かないし、点滴も効きはいまいちだが、ロキソニンという内服薬だけはよく効く。これがわかっただけでも価値がありそう。このあと、ロキソニンには1か月以上お世話になることになった。

2011年11月26日土曜日

腹部の管を抜いた後はホッチキス

11月25日土曜、腹部の管を抜いてもらった。「この管を抜くと楽になりますよ」と言われて期待していた。経過は順調らしい。
さあこれから抜きますという時には、知らず知らずのうちに体に力が入る。
抜くときには言いますから、体の力を抜いてていいですよ。
「一度大きく息を吸ってください。息を吐いて。もう一度息を吸って~。ハイ息を止めて。・・ハイ抜けました。」こんな感じで抜いていってくれる。ちょっと痛みはあるがそれほどの強い痛みではない。
驚いたのは、抜いた後の処置。ホッチキスで留めるだけ。ちょっと痛みますよ。といわれてパチン。はい一か所終わりました。次を抜きます。
こんな感じで3か所を抜いてもらった。なんだか、おなかの周りがすっきりしてきた。身動き取れなかった原因がなくなり、あとは、腕につないだ点滴の後だけ。

座薬が効かないということをお医者さんにも伝えておいたので、工夫してくれて、点滴の痛み止めを処方してもらった。管から直接入れる麻薬と比べると雲泥の差だけど、しばらく時間をおくとなんとか効いてくる。

妹がまた見舞いに来てくれた。話し相手がいるだけでも気晴らしになる。

2011年11月25日金曜日

座薬が効かない

このころに一番きついのは、痛み止めが利かないこと。管につながった注射器から麻薬(と思われる)痛み止めを流し込むのは一番効くが、それは、手術直後のみで、その後では補充してくれない。
次に頼りになるのは、座薬らしい。座薬にも麻薬が含まれていて、かなり強力な痛み止めと聞いた。看護師さんに痛いから何とかして、というと、この座薬を入れてくれた。
ところがこれが、相性なのかもしれないが、まったく効かない。いつまでたっても、痛みが引かない。
腹部に鈍い痛みが継続して襲ってくる。もちろん、最初の月曜の発作の時に比べると、まだ我慢できるレベル。月曜の2度目の発作は死ぬかと思ったが、それを10とすると、6か、7というレベル。それでもかなり痛い。それが座薬ではほとんど効かないということに気がつくのに丸一日かかった。
このあたりの日は、昼と言わず夜と言わず、とにかく痛みとの闘い。痛みが引いているときには、睡眠をとることもできるが、痛いときには寝ることもできず、ひたすら、ベッドの上で苦しんでいる状態。
それでも死ぬことは無いはずだが、眠れないというのはかなりの苦痛であるに違いない。

2011年11月24日木曜日

転院計画

榊原記念病院は、心臓外科中心で、しかも、救急がメインの病院らしく、急性期から亜急性期になると、できるだけ早く退院してくださいと言われそうな雰囲気がある。
主治医の西本先生から、転院の話があった。すでに多摩南部地域病院の先生とも話を進めているらしい。
多摩南部地域病院は地域の総合病院で、心臓外科手術はできないが、ステント手術は可能、総合的に、亜急性期の入院患者が過ごすにはよい病院らしい。
ということで、翌週の水曜あたりを転院日として、予定して進めましょうということになった。

リハビリは、毎日継続しているが、まだ、フロア内を一周か二周する程度。

榊原記念病院の心臓外科の体制はすごいと思います。看護師の一人一人まで、また理学療法士の先生まで、心臓外科の手術の後のケアという観点に注力されているように思う。

ひとつ欠点をあげるとすると、食事。1週間程度の間で、食事には閉口した。こんな味付けが可能なことが信じられないくらい。まずさが飛びぬけている。
減塩食であり、一日の食塩量を6g以下に抑えているらしい。それにしても、よくこれだけ不味い料理ができるものだというくらいにまずい。
カバーをあけると、においだけで、申し訳ないが吐きそうになる。

西本先生に相談して、トマトジュースと栄養ゼリーの飲食許可をもらうことができた。この二つで、なんとか栄養補給している状態だった。

2011年11月23日水曜日

リハビリ開始

11月24日木曜
リハビリに同じフロアを一周する。200mらしい。わずか200mなのに息が切れる。
肺の中に水がたまっているらしい。それで呼吸できる空気の量が減る。鼻からは酸素ボンベにつながる管を入れている。鼻が苦しいわけではないが、酸素が供給されているというだけでやはり楽になっているらしい。
パソコンを触りたくなっているが、病室では無理だし、まだ手が出せない。

2011年11月22日火曜日

麻酔が切れると痛い

一般病棟に移動してからは、ただ回復を待つのみ。その間に、リハビリのメニューがあるらしい。
榊原記念病院は、循環器外科では、国内有数の病院らしく、看護師の質も、リハビリの理学療法士の質も高そう。
勤労感謝の日、23日は、さすがに、ぼうっとして過ごしたように思う。
田舎の両親、妹夫妻が見舞いに来てくれる。もちろん、家族は、家内だけでなく娘たちも来てくれた。
麻酔が切れると痛いが、まだ、注射器型の麻酔注入器が腹部につながっている。あとから考えると、これがなくなると相当な苦しみが待っていたので、もう少し有効に使う工夫をすべきだったかも知れない。注射器型の麻酔剤は、シリンダーを押すと麻酔剤が注入される仕組み。何回か押すと、出なくなる。痛みがあるときには押してください、と言われて、何度か押してみたが、この麻酔剤は効く。ほかの痛み止めは、ほとんど効果がないものが多かっただけに、この麻酔剤の使い方を工夫してぎりぎりのタイミングを待てば、もう少し、痛みとの付き合い方が楽だったかも知れない。

執刀医の福井先生が診に来てくれた。
見るからにできそうな雰囲気を醸し出している、40代くらいの先生だった。この人が執刀してくれたのなら安心と思わせる風貌があった。

手術の痕跡を見ながら一般病室へ

11月22日火曜朝。気がついたら、一般病棟に移されていた。
家内と3人の娘たちだけでなく、田舎から両親が見舞いに来てくれていた。

とにかく、まだ生きている。手術は成功したらしい。手術ができたということが、すでにかなり大丈夫な領域である証左とも聞いた。だめなら手術そのものを断られるということ。

自分の体を見直してみて、不自由な状態に驚く。まず目につくのは、首の下から肋骨の下、みぞおちの辺りまでの一直線の傷跡。開胸手術をしましたというのが一目でわかる。傷跡の上にはテープが1cm間隔で張ってある。ほかに大きな傷跡は、左側の鎖骨のすこしひだりから胸の上、片口にかけての10cm足らずの傷跡。こちらは左手の脈がなかったので、再度、開胸を行った時の痕跡。肋骨のしたの辺りの腹からは、3本の大きな管が出ている。肺の中にたまる水を出すためらしい。腕と足の付け根からも何か出ている。息をするのにも鼻に管が通っている。点滴の管がしおらしいくらい。とにかく大手術をした後という気配は見るだけで十分にわかる。
両手がグローブのように腫れている。これも手術の影響らしい。

病室で、かわるがわる覗き込む顔にこたえていても、頭はぼうっとしている。長女はこの日まで、ずうっと泣き通しだった様子。私が、死ぬかもと思っていたらしい。ネットで調べるのはお手のものなので、何か一つ情報があると、すぐにその関連の情報を調べて、どうなるのかと思案を巡らす、その繰り返しで疲れていたのもあると思う。

主治医が軽く手術の説明をしてくれる。
左手の再手術についても説明を受ける。左手を見ていると自分の意思とは関係なくぴくぴくとひきつっている。脈が一度無くなって血が通わなくなった痕跡らしい。ただ、その後すぐに気がついて、手術室にいる間に再度開胸を行い、バイパスして血流の回復を確認してくれたので、このあと後遺症もなく回復できた。執刀医の先生の技術力の賜物を思う。感謝。
ちなみに昨日の朝、つまり発作の起こった朝には煙草を吸う前に痛みが来て、そのまま救急車、手術と進行したので、朝は、すでに煙草を吸っていない。その前日の夜に吸って以来ということになる。さすがに今回ばかりは辞めざるを得ない。

2011年11月21日月曜日

開胸手術と左手の脈が無い

手術は全身麻酔なので、手術室に入った後のことはわからない。
家族は外で待っていてくれた様子。
大動脈解離については、スタンフォードA型とスタンフォードB型の両方が発症しており、手術の対象となったのは、定石どおりA型の部分。B型は温存しておく療法らしい。
普通の病院で行えば、この手術だけで、朝から初めて、夕方までかかる大手術らしい。胸を開いて、心臓から出ている大動脈の一部を人工のものに置き換えるという大変な手術。のちにもらったパンフレットからテルモ製の人工動脈と推測している。
榊原記念病院は、心臓外科の分野では、日本で三本指に入るところらしい。この大手術を、3時間でやったと聞いている。
ただし、一度胸をふさいでみたところ、左手の脈が無い。そこで再度開胸して、左手の血流のバイパス手術を実施したらしい。それにさらに1時間か2時間程度。
あとからみて、最初の開胸手術のあとは、喉もとから肋骨の下まで伸びている一直線の傷跡でわかる。二度目の開胸の痕は、左の鎖骨から胸の上に伸びている10cm足らずの傷跡としてのこっている。このあと、両方の傷跡とも、痛みは長い間続くことになる。

手術室に入る前には、手術中に何かあったら、お知らせします、と言われていたが、左手の脈がなく、再度の開胸とバイパス手術に関しては、実施前には、特に何も話はなかったらしい。結果としては、後々まで後遺症もなく素晴らしい手術をしていただいたのは幸運だったと思う。

手術が終わった後も集中治療室に入れられて当日は何の記憶もない。

大動脈解離で榊原記念病院へ搬送

CT検査の結果は、意外な病名だった。

「大動脈解離」

そんな名前を素人に言われても困る。
何だかわからないが、多摩南部地域病院では手術もできないらしい。そこから、診てくれた先生も救急車に同乗して、別の病院に移送することが決まったらしい。もう、午前10時ごろになっている。痛みは全く良くならない。こちらで何もできないので、任せるしかないがそれにしても早くなんとかしてほしいという思いでいっぱいだった。

また、救急車に乗り込んで、移送が始まる。最初に乗ったとき以上に記憶があいまいになっている。痛み止めくらいの処置はあったのかも知れない。
榊原記念病院に運ばれたあたりは記憶があいまいになっている。救急車だと30分程度の距離だが、乗ったところも降りたところもはっきりとした記憶がない。
次に覚えているのは、「大きな手術になります」、という言葉。開腹手術ですか?と聞くと、「開胸手術です」という答えが返ってきたことくらい。あとはどんな手術をするのかもわからなかったが、こちらに選択肢はない。
手術の前に、娘たちが間に合って、面会してくれた。長女はしっかりと支持してくれたようだが、ずっと泣いていたらしい。末の娘も、一度学校に行った後で病院に駆けつけてくれた様子。とにかく3人の娘たちの顔は見ることができて、そのまま、手術室に運ばれた。

のちに説明を受けたところでは、Stanford A型の大動脈解離ということだった。上行大動脈に解離が及んでいる状態で、下行大動脈にもあるが、そこは今回の手術ではそのまま放置されたらしい。

多摩南部地域病院へ

弟のことが少し頭をよぎっていた。
入院したときには知らなかったが、あとから母親に聞くと、一度心臓発作で救急車で運ばれたらしい。心筋梗塞だったように思うが、ニトロの舌下錠の世話になっているらしい。兄弟だからきっと同じ系統の病気に違いない、そんな先入観もあったと思う。
救急隊員の人に、弟と、それから父親の話もした記憶がある。
それらの情報を頼りに、救急隊員は、無線で連絡を取りながら、心臓関係の救急医を探してくれたのだと思う。しばらく本部と話をしていて、多摩南部地域病院に搬送が決まった。そんな名前を家内に話していたらしいが、私は痛みに悶えていたので記憶が定かではない。
それでも救急車が動き出した時にはわかった。

どういう道順を通ったのかさっぱり記憶にない。救急車の中でももだえ苦しんでいたと思う。
とにかく、小一時間ほどで、多摩南部地域病院の救急外来に到着した。そこから、しばらくの間、いろいろ問診と検査をやったのだと思う。問診は、「痛い」という以外には有効な情報はなかったかも知れない。
家内の話だと、ここで、心筋梗塞を疑って一度、動脈中にステントを通す手術を行うという結論が出ていたらしい。家内は、言われるままに書類にサインをして、あとは手術を待つという時に、別のお医者さんが、やはり気になるから、念のため、CTを取ろう、ということになり、それからさらにCT検査をすることになった。このあたりは、当人は、半分意識も朦朧としていて、何が起こっているのかよく理解できていなかった。

とにかく、CT検査を行ったらしい。CTの間もこちらは当然痛いので、動き回る。「動かないで」と何度も言われて、必死で、周りにあった棒をつかんでいた記憶がある。ちゃんと止まっていられたかどうかはなはだ疑問だが、最低限の検査と診察に耐える画像は取れたのだと思う。
それでも、このCT検査は重要だった。どの先生かもわからないが、CT検査をやろうと言ってくださった先生のおかげで、今、このブログを書くことができている。この時に当初の計画どおり、ステントを通す手術を行っていたら、私の大動脈は見事に粉砕されていたに違いない。わかりやすく言うと、その日のうちに、それも数時間のうちに、あの世に行っているということを意味している。
ただ、不思議に死ぬという予感はなかったように思う。もっとも死んだことはないので、本当に死んでしまう時にどんな感触なのか知りようもないが。賽の河原を通って、三途の川を渡ろうとした記憶もないし、閻魔大王さまの顔も見なかった。

いつもの朝食時に突然の胸の痛み

11月21日朝、6時すぎたころ。いつもどおり、ダイニングのイスに座って、バナナを食べていたら突然の胸に痛みが来た。一瞬、バナナが詰まったのかと思った。ちょうど、バナナが食道を通ったあたりの背中に鈍い痛み。バナナの飲み込み方が悪くて、食道の筋肉が痙攣したのかと思った。
胸を叩いてみても良くならない。そのうちに、すでに起きていた長女が心配そうにのぞきこんで、救急車を呼ぼうか、と言ってくれている。「会社にいけるかな」そんなことを考えながら、まだ、救急車は不要だろうと考えていた。
5分ほど、体をかがめて発作が通り過ぎるのを待っていたように思う。
そのあとで、突然来た。今度は、もだえるような痛み。会社に行けるどころではない。「救急車、呼んで」やっとそれだけ言って、痛みに悶えていた。

救急車が来るまでの20分程度の間にも、もだえ苦しんでいたと思う。そのうちに救急車が家の前に来て、救急士が2名、迎えに家の中に入ってきてくれた。
リビングで悶えていたように思う。リビングから、ダイニングのイスに座らされて、そこから二人係で運び出してもらった。意識はあるのだが、体の自由が利かない。
救急車には、妻が同乗してくれた。救急車は初めて乗るなぁ、そんなことが頭をよぎったが、それ以上に、痛みは全くなくならないので、ずっと悶えていたように思う。